言葉を振るう者
先日リツイートさせていただいた方のツイートについて、マシュマロが届いたので、これをきっかけに少し踏み込んだお話をしたいと思います。
真面目に頑張ってる人も、そういう人を応援するのが好きな気持ちも当然非難されるべきではないのよ。問題は、「観察者の主観でしかない物差しで測られた”努力“」を棍棒のようにして、頑張り以外で評価されている(ように見える)人に対して言葉の暴力を奮うことだよ。
— がと (@D_251gato) 2019年9月13日
わたしはこのツイートに深く共感しました。
ずっともやもやしていた気持ちが、やっと文字になって表れて、飲み込むことができた感覚があって。がとさん(FF外なのに生意気にすみません)が何を元にこのツイートをしたのかはわたしの方では定かではないので、わたしなりのツイートの解釈とそれを通して感じたことをお伝えしますね。
問題は「観察者の主観でしかない物差しで測られた"努力"」を棍棒のようにして、頑張り以外で評価されている(ように見える人)に対して言葉の暴力を振るうことだよ。
この「観察者=ファン」と考えると、これは所謂「アンチ行為」についてのお話に捉えることができると思いました。アンチがいかに的外れな行為であるか、芸能人にもそのファンにもいかに失礼な行為であるか。
がとさんはこの一連の行為について、続けて
真面目に頑張ってる当事者じゃない者がその頑張りを横から掻っ攫って勝手に凶器にするな
という言葉でも表現していらっしゃいますが、この「当事者=本人たち」と捉えると、もっとわかりやすく捉えられるかと思います。
所詮ファンって二次的、三次的にしか本人達に関わることができない。確かにお金を出したり視聴率を上げたりすることに貢献している身ではありますが、それはあなた1人が成し遂げたことではない。ひとりひとりの積み重ねと本人の努力、それ以外にもスタッフの手腕だったりタイミングだったり、他にもいろんな要因があっていろんな事象は発生しているはず。
でも「自分だけのおかげではない」ことはわかってはいても、良い結果が残るとすごく誇りに思えますよね。わたしもキンプリさんたちが歴史に残る記録を打ち立てて行く度に、彼らのことが誇らしいです。ほら見たことか!うちの子たちすごいでしょ!と他の人たちにも自慢して回りたくなります。でも、わたしはそんなことする勇気はないので、紫耀くんよかったね〜頑張った甲斐あったね〜と心の中で問いかけて、こっそりガッツポーズしてます。
でも、それだけじゃ物足りない人たちもいる。嫉妬と憎悪の世界に生きている人たちは、以前誰かから売られた怨みを忘れることなく、みんなで残したはずの輝かしい功績を武器にして、他の人たちを傷つけて回るんです。気持ちはわかるけれど、それをしたら自分で自分の首を絞めつけていることになるじゃない……と思ってしまうんですけどね。
だって結果なんて単純比較できるはずがないんです。経済情勢や物価、時代の流れ。情報化が進むこの現代において、単純に数値だけを見て物事を判断することなんて不可能なはず。そんな簡単に比較できたら誰も苦労しないよ…分からないからこそ面白いし、どんな結果が出ても楽しめるんじゃないか…と思うのです。
だから、自担が残した結果を周りと比較して、それがいかにすごいか示したとしても、それって担当の顔に泥を塗るようなもの。本人は正義感や責任感からそれをしているのかもしれないけれど、いい加減気づいてほしい。お願いだから。
このような「アンチ」行為は、主に嫉妬の対象とされる人に対して行われることが多いように感じます。いわゆる「ゴリ推し」だったり「オキニ」だったり。がとさんの言葉で言えば「頑張り以外で評価されている(ように見える)人」のことですね。
わたしはこういうタイプのアンチを見かけるとある一言が頭の中に浮かびます。
「あなたは彼らの何を知ってるんですか?」
わたしのだいすきな紫耀くんは、ジュニア時代のころから常にこういったタイプのアンチに粘着質に批判されてばかりでした。現在進行形なのかもしれないですけど。そういった背景もあって、この問題に関しては本当に思うところが多い。ただ単にネットの嘘の情報を信じ込んでいるタイプの子から、自分の主観的な考えがいつでも正義であると信じて疑わないタイプの子まで、実にさまざまです。アンチ行為をアンチするつもりはありません。もうだってそれは無限ループだから。わたしはそんな泥沼の争いに足を踏み入れたくはないので。
みんな生きていたら「頑張っている」んです。そんなに頑張っていなくてもアピールが上手な子だっているし、めちゃくちゃ頑張っているけれどそれを表に見せずに影で着実にステップアップしている子もいる。それはただ二次的、三次的に情報を受け取る側からしたら、ただの観察者の目からしたら見えない部分なんです。分かるはずがないし、分からせようとしないことがあの世界の美徳であり、曖昧にすることである一定の人たちによって世の中の流れを牛耳りやすくもさせてしまうトリックでもある。
紫耀くんのファンになって、Twitterのアカウントを作ってたくさんの素敵な出会いがあって、本当にいろんなことを学びました。過去のわたしを知っている方ならご存知の「fleurさん」は、わたしのためのアカウントではなく、平野担の皆さんといろんな情報を共有したい、常に正しく紫耀くんの魅力を伝えたい。そんな一心でJr.時代の紫耀くんを必死で追いかけていた、そんなアカウントでした。
紫耀くんのその素直すぎる性格と言葉は、ときに誤解を生んでしまいがちです。通常ではありえない言葉を組み合わせたりするからこその、衝撃や誤解、矛盾もたくさん生じ得ます。
ファンであるわたしがいくら「この紫耀くんの言葉が素敵!」と思ってツイートしても、何故だか違う意味に捉えられてバズってしまったり、回り回ってアンチ方に悪い意味で引用されてしまったり。すべての人が同じ文章を読んでいるのに、どうしてこうも解釈が異なってしまうのだろうと、思っていることを言葉にするのが怖くなってしまった時期もありました。
言葉というのは、諸刃の剣です。
言葉を伝えるときの表情や前後のつながり、そして話者のバックグラウンド。それを知らない人たちが気軽に、その人の言葉だけを目にすることができてしまう。伝えることと受け取ることの難しさは、きっといくつになっても完全に理解することはできないのだろうと思います。
言葉を振るう者として、正しくあるべき姿とはなんなのか。皆さんはどう考えますか?