変わらない
Netflixで配信されているARASHI's Diary-Voyage- の最新話"AIBA's Diary"を観た。
明るくて朗らかで、清潔感があって、情に熱く常に他人に対して柔らかい人。
そんな温かいイメージがある相葉くんが「本当の自分がわからない」「テレビにいるときの俺は演じてるってこと?」と神妙な顔をして友人に語っていた。
「幼い頃からいろんな感情を抑え込んで、周りをみて『こういう時はこうすればいいんだ』ってやるようにして、そうやって生きていくうちに、本当の自分ってなんだろうって」と。
自分にはたくさんの面があって、どんな自分をみんなが愛してくれているのか。自分のことを愛してくれている人たちのために、自分ができることは何なのか。
相葉くんは、誰かの求める自分の姿を、いろんな媒体を通して作り出される「相葉雅紀」という偶像を、壊してしまわないようにちゃんと守ろうとする人だと思った。
嵐のファンでもないわたしが、限りのある浅い知識で相葉くんを語るなんて…と思われるかもしれないが、どうかお許しいただきたい。どうしてだかわたしはこのムービーを観ているとき、だいすきで大切な紫耀くんのことを思い出してしまった。なんでかはわからないけれど、思い出さずには、重ねずには、いられなかったのだ。
ROT #1で『花のち晴れ〜』の撮影期間中の紫耀くんが映されているけれど、ViViの雑誌撮影のシーンで紫耀くんは「名古屋に帰りたい」という言葉を残している。
ジュニアの時から、紫耀くんはそうだった。
2ヶ月ほどのハードな舞台が終わった後、地方での長期間の映画撮影が終わった後。大きなお仕事が終わると、紫耀くんはよく地元である名古屋に帰って、家族や地元の友達とゆったりした時間を過ごしているようだった。
雑誌のインタビューで名古屋の話が出てくる時は、基本的に紫耀くんからのS.O.Sなんだろうなと思っている節がある。自分の弱みや悩みを滅多に口にすることはないけれど、スケジュールが明らかに密に詰められていて、笑顔やふとしたときの表情に影が見えるとき、紫耀くんは「名古屋に帰りたい」という言葉を口にすることがあるような気がしている。
紫耀くんがどうして名古屋の空気を吸うだけであんなに元気になれるのか、ということはわたしにはよくわからないけれど。名古屋に帰って東京に戻ってきてからも、紫耀くんは家族とのエピソードをとても楽しそうに話してくれるし、普段から幼馴染みや家族との交流についても触れていることからすると、紫耀くんにとっての「名古屋」はあってなくてはならない場所なのだろうなということだけは、すごくよくわかる。
相葉くんと紫耀くんの似ているところは「素直である」ということなのかもしれない。
そんなこと、バラエティー番組で共演したときにすら感じなかったけれど、あの数十分で相葉くんの姿をみて、なぜか全く関係のない紫耀くんのことを思い出してしまったから。
他人に美しくて煌びやかな夢物語を見せる、特異な世界で生きる彼らにとって、本当の自分を見失わないことがいかに大変で難しいことなのだろうか。周りから与えられる見えない重圧と、各方面から常に見られているという自覚。自分が立ち止まれば、自分だけではないとんでもない数の人たちの人生が狂い、変わってしまうかもしれないという恐怖。自分の魂を削って、自らの限りある人生を芸能に捧げなければならないという代償。
「上昇していくよりも、キープすることの方がずっとずっと難しい」と相葉くんは語った。
ジュニア時代にトップを走り続け、「またあいつかよ」と言われることもたくさんあった紫耀くんが、1番風当たりの強い場所でひとり前に進み続けた紫耀くんが、擦れたり捻くれたりせずにこれまで生きてきたことがどれだけ凄いことだったのかを、今になって実感する。
紫耀くんが「変わらない」ということを、わたしは何度も言っているけれど、そのことで悩んだことも数え切れないほどたくさんある。
今年の紫耀くんの誕生日にブログを公開した時も、わたしはずっとわからなかった。紫耀くんは何も変わっていないはずなのに、どうしてデビューしてからの紫耀くんをうまく受容できなくなってしまったのかが、わからなかった。
それこそ紫耀くんはジュニア時代からずっと、いろんな場所で活動をしてきた。それぞれの場所で、それぞれの仲間たちとの関係性があって、その場での空気感もそれぞれ違って。
環境が変わるごとに、紫耀くんは「変わった」と言われていた。そうかと思えば、どんな環境でもかならず先頭を切って走り続ける姿に「仲間への情がない」「自分が良ければそれでいいのか」と心ない言葉をかけられることもたくさんあった。
「変わらないこと」って何なのだろう。
「本当」って、いったいどこにあるんだろう。
正解は本人にすらわからないはずで、神様にだってわからないかもしれないのに、どうして人はその人のことを「変わってしまった」と平気で言うのだろう。
いま見ているものが、目の前にあるものがすべて虚像かもしれないのに、自分の見える限りの振る舞いや行動が少し違うものに見えたからって、どうしてそう簡単に批判できるのだろう。
わたしは、紫耀くんは「変わらない」人だと思う。
雑誌のインタビューやバラエティー番組で自ら語ることはほとんどないけれど、昔からお世話になった人たちの誕生日に、毎年かならずプレゼントを贈っていること。
ずっと大切にしている言葉が変わらないこと。
紫耀は変わらないねって、大人になるずっと前からの彼を知っている友人たちが、いつも言っていること。
わたしが紫耀くんを変わらないと思う理由は、挙げてみればたくさんある。「変わらない」ことを証明する理由は、その人のある一面だけではなくて、時系列や次元すら飛び越えてあらゆる角度から見たときの、膨大な言葉や行動の積み重ねの中にあると思う。
紫耀くんの親友と呼ばれるうちの2人が、紫耀くんのそばにいてくれていること。自分が安心していられる仲間たちと過ごす空間が、すぐそばにあること。
当たり前のことかもしれないけれど、激流のように荒れ狂う時代の波の中で、ずっと変わらずに紫耀くんがそこにいてくれたのは、そういう空間を、場所を、絶対になくさないようにしっかりと捕まえて、なによりも大切にしてきたからなのかもしれない。
わたしは今回、Voyageで描かれた相葉くんの姿に紫耀くんを重ねたけれど、かと言って相葉くんと紫耀くんは全く同じではない。
ただ、時代の最先端に押し出され、いろんな悩みを抱え、常に時代のトップランナーとして歩み続けてきた彼らに、ちょっとしたシンパシーを感じてしまったという、ただそれだけのことだ。
紫耀くんの人生は、紫耀くんだけのものだ。
彼が望み、描いていく彼自身のパレットをみつめ、塗り替えられていく新しい作品を、ずっとみつめていたい。「今」の紫耀くんが描く「今」しか見ることのできない景色を、常に新鮮な気持ちで見守れる人でありたい。