駄々

 

「いい国〈1192年〉作ろう鎌倉幕府」はとても有名な語呂合わせのひとつだ。わたしたちの世代では当たり前で、それだけはテストで点数を取れる、というくらいに誰もが知っている共通概念だった。

ところが、最近では「いい箱〈1185年〉作ろう鎌倉幕府」が定番なのだという。

わたしはそれを知った時、歴史って意外といい加減なんだな、と思ったのを覚えている。

 

あらゆる書物が残されていたり、それについて調べる研究者は山ほどいるというのに、歴史の教科書はこうやって塗り替えられていく。事実はひとつしかないはずなのに、まるで現在進行形のように、移り変わっていくのだ。

 

歴史は常に「勝者」によって書き換えられてきた、都合のいいお伽話だと思う。

教科書で語られる時間軸の主人公はいつだって時代の勝者だし、敗者はまるで悪者のように描かれ、人物像すらも脚色されてしまう。

 

他人の口から語られる「過去」なんてものは、所詮アテにならない。

いくら権威のある人物が記した書物が根拠だとしたって、世界の大多数が信じている揺るぎない常識が元になっていたとしたって。その大元を辿れば、誰かの頭の中から作られた空想上のお話かもしれないから。

 

 

何が言いたいかって、わたしの周りの世界では誰も大きな声で言おうとはしないけれど。

わたしは最近、大好きな彼らと共に過ごしてきた「過去」が少しずつ塗り替えられていることに、恐怖を覚えている。本当に、少しずつ。詳しく知らない人だったら疑いもしない場所から、誰にも気づかれないように、そうっと。

 

別に、それでも良いやと思うこともある。

だってあの時代を共に過ごした人たちは、時間が経てば経つほど離れていくし、一生忘れないと思ったあの瞬間だって、今では頭の中にぼんやりと靄がかかったように思い出せないこともある。

歴史なんて、過去なんて、本当なんて。そんな曖昧なものなんだ、と割り切って、違和感のあるそれらを見てみないフリをすることだってできるんだけど。

 

でも、なにかがちがう。

わたしたちが肌で感じてきたあの時代を思い出した時の記憶と、誰かのフィルターがかかった記憶を後から見た景色は、明らかに何かしらの差異が生じている気がする。

そんなこと言ったって時間は進むばかりなのだから、仕方ないってことはわかっている。だったらわたしの知っている景色を事細かに教えてくれ、と聞いてくれる人の気持ちもとてもよくわかる。しかし、どうしたって伝わる気がしないのだ。何度も適切な表現で伝えようと思ったことはあるけれど、うまく言葉に表せなくて、しまいにはむりに伝えようとしなくたって、わたしが覚えていれば良いや、という思考に至ってしまう。

 

じゃあ君は何が言いたいんだと問われたら、ただ漠然と過ぎゆく時間に抗って、子供のように駄々をこねているだけなのかもしれない。

 

好きになってくれてありがとう、と切に思う。本当に心から大好きで、彼ら以外が1番になるなんて考えられなくて、愛おしくて大切で、一生宝箱に閉じ込めておきたいと願った彼らを、愛してくれる人が今もいるということはうれしい。

うれしいけれど、それは今を否定するための道具ではない。遠くからみたら「過去」はただの「過去」でしかないのかもしれないけれど、「過去」は今の積み重ねだ。今を大切に生きてきた人たちが遺した、世界でいちばんの宝物だ。

 

だから、ずっと応援し続けている人なら、過去と現在を比較してどっちが好きでどっちが嫌いかなんて、断定できるはずがないと思うのだ。

応援するって、共に前に進み続けるって、背中を追いかけるって、すごく苦しい。自分のエゴやちいさな希望をぐっと喉の奥に押し込んで、ただひたすら目の前の現状を享受していくのは、とても簡単なようで実はすごく難しい。

 

あの鉛のように重苦しいものが胸に沈殿したまま、淡くて儚い夢を歌い続けた彼らをずっと見つめていたあの頃が、ただの「歴史」の一つとしてみたときに「煌めき」となってみえるのは、間違いではないのだろうと思う。わたしのこんなくだらない情や、彼らを取り囲んでいた世界のあれやこれやを排除した景色は、さぞ美しく煌めいて見えることだろうというのは、わたしにだって容易に想像がつく。

 

でも、比べないでねって言わせてほしい。

彼らは血と涙と汗を飲んで、あらゆるものを捨て、とんでもない覚悟でここまで歩んできた。そんな彼らの今を、そんな簡単に否定しないで。

 

こんな想いは、届いてほしいと思う人には一生届かないと思うけれど。届かないまま、多数という名の「勝者」によって都合よく過去は書き換えられていくんだろう。

それでもわたしはひっそり、駄々をこねて生きている。