鍵のない監獄

 

わたしはよく、呪文を唱える。

 

"ビビディ・バビディ・ブー"みたいに、何か願いを叶えたいときに唱えるのではなく、ふとした時に気づいていたら心の中で唱えている、とびきりの魔法の呪文。

なにも考えずにいつも唱えているので自分でもよくびっくりするのだけれど、何かつらいことがあったり考えに詰まったりしてしまうとき、わたしは無意識に

平野紫耀さん、すき」

という言葉を、心の中でこっそり唱えるのだ。

 

ただの告白のようなその言葉は、時にわたしを落ち着かせ、時にわたしを奮い立たせる。真っ暗闇の中で迷い込んでいても、目指す場所を見失うことがないように、街灯のように仄かにそれを指し示してくれる。

 

わたしは平野紫耀さんのことが好き。

「愛してる」とは、烏滸がましくて言えないけれど、それすらも陳腐に聞こえてしまうほど紫耀くんへの「すき」という気持ちはいろんな形をしてわたしの心の中に存在している。

 

そうしてわたしは日々、毎日をどうにかこうにか生きながら「平野紫耀さん、すき」を唱えてきたけれど、この1年はどうにもその呪文がうまく唱えられなかった。向き合うべきことが多すぎたせいもあるし、その言葉だけでは乗り切れない壁が多すぎたから、かもしれない。

わたしが紫耀くんを嫌いになることは、この一生のうちできっと一度もないと思う。もしわたしが紫耀くんのファンを辞める時が来るとしたら、それは紫耀くんのせいではなく、自分のエゴや、「紫耀くんを好きな自分」のことがうまくコントロールできなくなった時、その自分を愛せなくなった時だと思う。

いつだったか、こんなことを言っていたけれど、思ったよりもそれは早く訪れた。

 

魔法はいつかとけてしまう。

ものごとはいつか終わりを迎える、なんてことは百も承知だけれどそれがいつ、どんなきっかけで訪れるかは魔法使いも神さまも、誰も教えてくれやしなかった。

 

率直に言うと、わたしは紫耀くんから逃げた。

理由はいくつかある。「紫耀くんを好きな自分」をすきでいられなくなってしまったから。紫耀くん以外のまわりの世界が、どうにも煌めいてみえてしまったから。求めすぎてはいけないと分かっていても、あれもこれも紫耀くんに求めてしまう自分が嫌で、醜くて仕方なかったから。紫耀くんにはないものを持っていて、わたしが求めるものを満たしてくれるものを見つけてしまったから。

 

紫耀くんのことがすきと、何年も言い続けておいて、いざという時に結局大切なのは、守ろうとしてしまうのは自分だけだなんて、本当にちっぽけな人間だと、ほとほと呆れてしまう。自分の一生を彼に捧げるほどの覚悟もない者が、こんなままで愛を語っていいものかと、悩んだりもした。

 

でも、この数年間紫耀くんしか見てこなかった、見ようともしていなかった人間が見つけた新しい世界は、いろんな考え方やものごとの見方を教えてくれた。

これまで考えもしなかった形で、美しさや尊さを享受する時間は、どんどんわたしを熱中させていったし、もともと浮気性で熱しやすく冷めやすい本来の性格を呼び戻していった。

でも、ある程度の深さまでそれらを知り尽くしてしまったとき、わたしはまた気づいてしまった。どんなにそれはそれとしてきちんと愛していたとしても、わたしはいつだって「紫耀くんだったら」と頭の片隅でありもしない想像をして、紫耀くんのことを考えてしまっていた。

 

何年も紫耀くんしか見えていなかったから、すべての主語や目的語が紫耀くんになるように癖づいてしまっていたからかもしれないけれど、結局のところ、わたしは平野紫耀さん以外のアイドルを愛すことはできないんじゃないかと、思う日が徐々に増えていった。

 

わたしは「アイドル」としての平野紫耀がすきだ。この先こんな出会いは一生ないだろうと思えるほどの、感じたことのない愛をもって、紫耀くんの背中を追いかけてしまっている。

そして、わたしは勝手に応援して勝手に傷ついて、勝手に離れていくだけで。世界のどこかのうちの1人がいなくなったところで、紫耀くんの周りの世界は何ひとつ変わらない。

 

好きでいろ、と言われているわけでもない。一生愛して、そばにいるという誓いを立てたわけでもない。ただ自分が「すき」でいるだけなのに、なぜだか紫耀くんに対してだけは、そうでなきゃいけない義務感みたいなものを感じてしまうのだ。紫耀くんが命を削って生きているのに、なにも慮ろうともせずに、当たり障りのない表面上をかするだけで、その一部から幸せを受け取るのはおかしいと感じてしまう。

 

アイドルとしての紫耀くんを好きになってしまった以上、応援し続けることは、背中を追いかけ続けるということは、紫耀くんが表舞台に立ち続けて、どこまでも上を目指して進んでいく姿を見守り続けるということだ。

「アイドル」という狂った世界の特殊なサービス業に就いて生計を立てている紫耀くんが、同じ時代に生きているひとりの人間が、魂を削っていく様を。ひとりの人生が猛烈な勢いで消費されながら、その代償として眩いほどの美しい光を放ち、あらゆる人間たちの物足りない日常を埋めていく様を、眺めていることしかできない。

人間としてのその姿を見つめながら、わたし自身その光を受けて幸せをもらっているというのだからタチが悪い。ねえ神様、この世はどうしてこんなに皮肉なのでしょうね。

 

平野紫耀さん、すき」の呪文もそうだけど、紫耀さんが生きているだけでこの星のどこかの人たちに与える影響は絶大だ。

 

わたしは、揺らぐことなく自分の意思で、平野紫耀さんのことを好きでいる。

誰かに愛されるよりも、自分のために生きるよりも、そのすべてがどうしてだか紫耀くんに繋がってしまうから、しょうがない。

 

それはまるで鍵のない監獄のようだ。

鍵はかかっていないのに、見えない有刺鉄線が張られているわけでもないのに、その監獄からは誰も出て行こうとしない。

わたしはあらゆる罪を抱えて、この先も紫耀くんの元にいる。決してその罪を知られることもなければ、赦されることもないまま、永遠に自分自身とこの罪に向き合って生きていく。

いつか本当に1日の中で紫耀くんのことを考えることがなくなる日が来たとしても、わたしはこれまで幸せにしてもらった思い出を忘れることはない。そしてふいに紫耀くんを見かけて思いを馳せたとき、その度にあなただけを一生愛しつらぬくことができなかった罪を思い出すことだろうと思う。

 

ただ思いつくままに言葉を綴っただけなので、本当に何の脈絡もなく、何か伝えたいメッセージがあったわけではない。

強いて言うならば、これは紫耀くんを褒め称えるためのものでもなければ、虐げるためのものではない、ということ。

これは、平野紫耀に囚われて、愛情という名の呪いのような、暗示のような呪文をかけられ、鍵のない監獄から抜け出すことのできなくなった、憐れな人間の独り言である。

 

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贖罪

 

悪夢のはじまりだと思った。

 

5年前のあの夏、タイムラインを占領する見慣れない横文字とネットニュースの見出しの数々に、さーっと血の気が引くのを感じた。

 

わたしは最初、彼らが大嫌いだった。

なにがライバルだ、なにが親友だ。君たちにはいるべき場所があるはずで、待っている仲間がいるはずで。ずっとずっと、いつか帰ってきてみんなで笑い合う日が来てくれると信じていたのに。それなのに、どうしてそんな顔して笑っていられるの。

 

彼らがあの夏に歌った曲は、デビュー曲かと思うくらいインパクトのある曲で、6人で歌っている姿もサマになっていて。頭の中に「デビュー」の文字がぽんと浮かんで、運命ってこんなに唐突に動き出すものなのか、と頭を鈍器で殴られたような感覚だった。予感はたしかにあったけれども、それでも。それまでとは比にならないほどの何らかの力を感じたし、わたしたちが声をあげたところでなにも変わらないんだろうと肩を落とした。今までのユニットって、それまで育ててきた絆ってなんだったんだろうって。

 

ひとりひとりが嫌いなわけじゃなかった。

その当時はよく知らなかった子も中にはいたけれど、それはそれとして心の底から嫌悪感をもったわけじゃなかった。いま思えば、たぶんただひたすら悔しかっただけだと思う。わたしたちの大切なものをとらないで、という悲痛な叫び。

ものすごくきらきらしていて、当たり前のようにみんなかっこよくて。わたしの見知っている仲間といる時の彼とは全然ちがってまるで別人みたいだとも思ったし、なんだかもっとずっと大人びて見えた。明るい茶色に染められた髪が、別の場所に馴染もうとしている彼を表しているみたいで、今までの彼とはちがうんだって境界線を張られているみたいでさみしかった。

 

結果として、そのままデビューをすることはなかったけれども、わたしは紫耀くんと距離をとった。

まだ思考も幼かったし好奇心も散漫だったから、逃げるのはとても簡単だった。別のグループを転々としながら応援して、アイドル誌の紫耀くんのページだけ読むようになった。少クラも紫耀くんのソロ曲だけを見た。

 

後にかつての仲間はその後の季節のことを「焼け野原」と称していたけど、まさにその通りだったと思う。「なにきん」を恋しく想う人はわたしの他にもたくさんいたけれど(そう呼ぶ人が増えたのはたぶんその頃からだったと記憶している)、だからといって彼らを批判したことは一度もない。でも、避けていたのは確かだった。寂しくなったときに思い出の小箱をひっそり開けて、戻らない時を想って泣いた。

 

それから1年ほど経って、わたしの人生において「青春時代の象徴」とも言える3人に巡り合った。ステージに立つ彼らを見て、わたしが知っていた時の紫耀くんとなにも変わらないことを肌身で感じた。それもまた、ものすごい衝撃でわたしの心を揺れ動かした。だって、髪色も体つきもうんと大人っぽくなっていたけど、MCで楽しそうに笑う姿がなにも変わってなかった。そんなのってずるい。好きにならずにはいられないじゃない、とずるずると沼に引き摺り込まれていったのを覚えている。

それでもあの頃はまだ未熟で、MCだってくちゃぐちゃで、意味わからないこともたくさん言ってた。だけどそんなの気にならないくらいに、めちゃくちゃな彼らがなんでか大好きになってしまった。一度、自分勝手に離れたはずなのに、紫耀くんにまた惹き寄せられていた。

 

その夏のあと、紫耀くんとかつての仲間たちが舞台で再び集った。まだ傷も癒えきれていないままだったのに、さらに傷をえぐるような未来が待ち受けているだろうことを想像して、神様を恨んだ。無理して笑い合う彼らを見たくなかったし、紫耀くんと彼らがもうちがうコミュニティに属しているのをまざまざと感じてしまうのがとてつもなく嫌だった。

 

それなのに、紫耀くんはまたしてもそんなわたしの予想を見事に裏切った。

すべてが、なにも変わっていなかったのだ。

距離が離れた分、その縮め方を模索していた仲間たちが「座長!」とわざとらしく声をかけると、「その呼び方はやめて」と眉を下げて笑った。気心の知れた仲間と一緒にステージを作っていたあの頃のあの瞬間、叶うはずもなかった夢が叶った、ような気がした。衣装もダンスもセリフ量も、圧倒的にちがうしその責任の重さも計り知れないほどだったはずなのに、仲間といれる時間を楽しんでいるみたいで。

 

「Johnnys' Future World」は紫耀くんを応援していた自分にとって大きな転換点だったとも言える。あの頃となにも変わらない笑顔の紫耀くんが見れたことは過去への未練をすぱっと断ち切ってくれたし、紫耀くんとPrinceの関係性がすごく素敵だと感じるようになった。そして、弟たちと離れていた期間を過ごしたのち、紫耀くんが初めてMr.KINGのことを「ホーム」だと感じたと言ったから、わたしはそっと心の中で秘密の誓いを立てた。

 

まあ、そのあともいろんな葛藤があった訳だけれども、なんだかんだあってから5年経った今、King & Princeをちゃんとわたしは愛せている、という自信がある。

5周年おめでとう!あの頃はさ〜…って楽しくて優しい言葉ばかりで祝えない自分がとんでもなくみっともなくて惨めな人間だと情けなく思うけれども、わたしはこうやって紫耀くんを愛してきた。幾度も誓いを立てて、脆くも崩れ去ってしまった非情な現実を恨んだことはたくさんある。目の前の景色を認められなかったことだってたくさんある。でもこうしてわたしは、いまちゃんと「あなたたちを愛しています」と目の前で言える自信がある。そうさせてくれたのは紛れもなく紫耀くんのお陰だし、わたしはそういう紫耀くんの「変わらなさ」に何度も何度も救われた。

 

こんなふうに自分から語り出さなければ、わたしは「Jr.時代から彼を応援し続けていた人」として感謝されたりもしていたはずだし、そう思ってもらっていた方が得をすることもたぶんたくさんあったと思う。でも、整理したかったから、これでいい。まだまだあの頃から溜まっていた膿みはたくさん残っているけれど、少しずつ消化していけばいい。

 

「好きな人だけをまっすぐ愛せたら」と悩む人はきっとわたしの他にもいるかもしれないけれど、わたしみたいに自分勝手に「好き」を語っている人もいるから安心してほしい。「好き」じゃなくなることは罪じゃないし、償うべきものでもない。大丈夫。

わたしは過去の自分を幼かったなあと恥じることはあるけれど、罪だと思ったことは一度もない。だってそれぞれの時代をちゃんと愛してきた自信があるから。知ろうと、好きになろうとちゃんと努力して、それでも気持ちが晴れないのならば、離れるしかない。未練ってとても厄介で、それが愛を取り戻す糸口になることもあれば、それを利用していくらでも人を傷つける武器にできる。かつては愛だったものだから、余計にタチが悪い。そういう人は死んでも死んでも生き返るし、また別のところに生まれるからキリがない、ずっと付き合っていくしかないけれど、健康な気持ちでいたいなら気にしなくていい、と思う。

 

5周年おめでとう、とは言えない。もう5年経ったんだね、としか言えないけれど、彼らに出会ってわたしはいろんなことを学んだ。最初は大嫌いだったのに、5年もの月日が経ったら愛しているとさえ言えるのだから、時間というものはすごい。それだけ彼らと濃密な時間を過ごせたのだ、ということにしておこう。

 

わたしはうまく割り切ることができなくて、すべてに情を写し込んでしまうからこそしんどい思いをたくさんしてきてしまったけど、これから先彼らがずっと一緒にいれるという保証がある限り、わたしは彼らを愛し続けると思う。

 

「好き」や「愛している」は免罪符ではない。だけど、暗くどうしようもない闇に落ちてしまいそうになったとき、その呪文を唱えると気持ちはとても晴れやかになる。ただ好きなだけ。たったそれだけで、それ以外に余計な感情はなにも要らなくて、心の中に飼った悪魔は追い出せるはずだ。

 

前のわたしを知っている人ならわかるかもしれないけれど、わたしは3人が共にいる以外の未来を、考えることすらしていなかった。だからこそ戸惑ったし、たくさん苦しんだ。ずっと綺麗な気持ちで6人を見てきたわけじゃないけれど、結成して5年、デビューして3年、月日と彼らがわたしを変えてくれた。

 

でも、変わらずに昔の彼らをそっと愛し続けるのも、ちゃんとしたひとつの愛の形であると胸を張っていいと思う。

一部の人たちは、過去を引き合いに出して今の彼らを否定するけれど、過去をずっとそっと愛していたい人だっている。そういう人たちが攻撃的な人たちと同人種だと思われてしまうのは心苦しい。変わらずに好きでい続けることってすごいことだから。わたしみたいに180°変わる必要はなくても、そういう人たちが居心地よくいれる場所があればいいのになあと、ちっぽけながらも切に願っている。

 

 

 

駄々

 

「いい国〈1192年〉作ろう鎌倉幕府」はとても有名な語呂合わせのひとつだ。わたしたちの世代では当たり前で、それだけはテストで点数を取れる、というくらいに誰もが知っている共通概念だった。

ところが、最近では「いい箱〈1185年〉作ろう鎌倉幕府」が定番なのだという。

わたしはそれを知った時、歴史って意外といい加減なんだな、と思ったのを覚えている。

 

あらゆる書物が残されていたり、それについて調べる研究者は山ほどいるというのに、歴史の教科書はこうやって塗り替えられていく。事実はひとつしかないはずなのに、まるで現在進行形のように、移り変わっていくのだ。

 

歴史は常に「勝者」によって書き換えられてきた、都合のいいお伽話だと思う。

教科書で語られる時間軸の主人公はいつだって時代の勝者だし、敗者はまるで悪者のように描かれ、人物像すらも脚色されてしまう。

 

他人の口から語られる「過去」なんてものは、所詮アテにならない。

いくら権威のある人物が記した書物が根拠だとしたって、世界の大多数が信じている揺るぎない常識が元になっていたとしたって。その大元を辿れば、誰かの頭の中から作られた空想上のお話かもしれないから。

 

 

何が言いたいかって、わたしの周りの世界では誰も大きな声で言おうとはしないけれど。

わたしは最近、大好きな彼らと共に過ごしてきた「過去」が少しずつ塗り替えられていることに、恐怖を覚えている。本当に、少しずつ。詳しく知らない人だったら疑いもしない場所から、誰にも気づかれないように、そうっと。

 

別に、それでも良いやと思うこともある。

だってあの時代を共に過ごした人たちは、時間が経てば経つほど離れていくし、一生忘れないと思ったあの瞬間だって、今では頭の中にぼんやりと靄がかかったように思い出せないこともある。

歴史なんて、過去なんて、本当なんて。そんな曖昧なものなんだ、と割り切って、違和感のあるそれらを見てみないフリをすることだってできるんだけど。

 

でも、なにかがちがう。

わたしたちが肌で感じてきたあの時代を思い出した時の記憶と、誰かのフィルターがかかった記憶を後から見た景色は、明らかに何かしらの差異が生じている気がする。

そんなこと言ったって時間は進むばかりなのだから、仕方ないってことはわかっている。だったらわたしの知っている景色を事細かに教えてくれ、と聞いてくれる人の気持ちもとてもよくわかる。しかし、どうしたって伝わる気がしないのだ。何度も適切な表現で伝えようと思ったことはあるけれど、うまく言葉に表せなくて、しまいにはむりに伝えようとしなくたって、わたしが覚えていれば良いや、という思考に至ってしまう。

 

じゃあ君は何が言いたいんだと問われたら、ただ漠然と過ぎゆく時間に抗って、子供のように駄々をこねているだけなのかもしれない。

 

好きになってくれてありがとう、と切に思う。本当に心から大好きで、彼ら以外が1番になるなんて考えられなくて、愛おしくて大切で、一生宝箱に閉じ込めておきたいと願った彼らを、愛してくれる人が今もいるということはうれしい。

うれしいけれど、それは今を否定するための道具ではない。遠くからみたら「過去」はただの「過去」でしかないのかもしれないけれど、「過去」は今の積み重ねだ。今を大切に生きてきた人たちが遺した、世界でいちばんの宝物だ。

 

だから、ずっと応援し続けている人なら、過去と現在を比較してどっちが好きでどっちが嫌いかなんて、断定できるはずがないと思うのだ。

応援するって、共に前に進み続けるって、背中を追いかけるって、すごく苦しい。自分のエゴやちいさな希望をぐっと喉の奥に押し込んで、ただひたすら目の前の現状を享受していくのは、とても簡単なようで実はすごく難しい。

 

あの鉛のように重苦しいものが胸に沈殿したまま、淡くて儚い夢を歌い続けた彼らをずっと見つめていたあの頃が、ただの「歴史」の一つとしてみたときに「煌めき」となってみえるのは、間違いではないのだろうと思う。わたしのこんなくだらない情や、彼らを取り囲んでいた世界のあれやこれやを排除した景色は、さぞ美しく煌めいて見えることだろうというのは、わたしにだって容易に想像がつく。

 

でも、比べないでねって言わせてほしい。

彼らは血と涙と汗を飲んで、あらゆるものを捨て、とんでもない覚悟でここまで歩んできた。そんな彼らの今を、そんな簡単に否定しないで。

 

こんな想いは、届いてほしいと思う人には一生届かないと思うけれど。届かないまま、多数という名の「勝者」によって都合よく過去は書き換えられていくんだろう。

それでもわたしはひっそり、駄々をこねて生きている。

 

変わらない

 

Netflixで配信されているARASHI's Diary-Voyage- の最新話"AIBA's Diary"を観た。

 

明るくて朗らかで、清潔感があって、情に熱く常に他人に対して柔らかい人。

そんな温かいイメージがある相葉くんが「本当の自分がわからない」「テレビにいるときの俺は演じてるってこと?」と神妙な顔をして友人に語っていた。

「幼い頃からいろんな感情を抑え込んで、周りをみて『こういう時はこうすればいいんだ』ってやるようにして、そうやって生きていくうちに、本当の自分ってなんだろうって」と。

 

自分にはたくさんの面があって、どんな自分をみんなが愛してくれているのか。自分のことを愛してくれている人たちのために、自分ができることは何なのか。

相葉くんは、誰かの求める自分の姿を、いろんな媒体を通して作り出される「相葉雅紀」という偶像を、壊してしまわないようにちゃんと守ろうとする人だと思った。

 

嵐のファンでもないわたしが、限りのある浅い知識で相葉くんを語るなんて…と思われるかもしれないが、どうかお許しいただきたい。どうしてだかわたしはこのムービーを観ているとき、だいすきで大切な紫耀くんのことを思い出してしまった。なんでかはわからないけれど、思い出さずには、重ねずには、いられなかったのだ。

 

ROT #1で『花のち晴れ〜』の撮影期間中の紫耀くんが映されているけれど、ViViの雑誌撮影のシーンで紫耀くんは「名古屋に帰りたい」という言葉を残している。

ジュニアの時から、紫耀くんはそうだった。

2ヶ月ほどのハードな舞台が終わった後、地方での長期間の映画撮影が終わった後。大きなお仕事が終わると、紫耀くんはよく地元である名古屋に帰って、家族や地元の友達とゆったりした時間を過ごしているようだった。

雑誌のインタビューで名古屋の話が出てくる時は、基本的に紫耀くんからのS.O.Sなんだろうなと思っている節がある。自分の弱みや悩みを滅多に口にすることはないけれど、スケジュールが明らかに密に詰められていて、笑顔やふとしたときの表情に影が見えるとき、紫耀くんは「名古屋に帰りたい」という言葉を口にすることがあるような気がしている。

紫耀くんがどうして名古屋の空気を吸うだけであんなに元気になれるのか、ということはわたしにはよくわからないけれど。名古屋に帰って東京に戻ってきてからも、紫耀くんは家族とのエピソードをとても楽しそうに話してくれるし、普段から幼馴染みや家族との交流についても触れていることからすると、紫耀くんにとっての「名古屋」はあってなくてはならない場所なのだろうなということだけは、すごくよくわかる。

 

相葉くんと紫耀くんの似ているところは「素直である」ということなのかもしれない。

そんなこと、バラエティー番組で共演したときにすら感じなかったけれど、あの数十分で相葉くんの姿をみて、なぜか全く関係のない紫耀くんのことを思い出してしまったから。

 

他人に美しくて煌びやかな夢物語を見せる、特異な世界で生きる彼らにとって、本当の自分を見失わないことがいかに大変で難しいことなのだろうか。周りから与えられる見えない重圧と、各方面から常に見られているという自覚。自分が立ち止まれば、自分だけではないとんでもない数の人たちの人生が狂い、変わってしまうかもしれないという恐怖。自分の魂を削って、自らの限りある人生を芸能に捧げなければならないという代償。

「上昇していくよりも、キープすることの方がずっとずっと難しい」と相葉くんは語った。

ジュニア時代にトップを走り続け、「またあいつかよ」と言われることもたくさんあった紫耀くんが、1番風当たりの強い場所でひとり前に進み続けた紫耀くんが、擦れたり捻くれたりせずにこれまで生きてきたことがどれだけ凄いことだったのかを、今になって実感する。

 

紫耀くんが「変わらない」ということを、わたしは何度も言っているけれど、そのことで悩んだことも数え切れないほどたくさんある。

今年の紫耀くんの誕生日にブログを公開した時も、わたしはずっとわからなかった。紫耀くんは何も変わっていないはずなのに、どうしてデビューしてからの紫耀くんをうまく受容できなくなってしまったのかが、わからなかった。

 

それこそ紫耀くんはジュニア時代からずっと、いろんな場所で活動をしてきた。それぞれの場所で、それぞれの仲間たちとの関係性があって、その場での空気感もそれぞれ違って。

環境が変わるごとに、紫耀くんは「変わった」と言われていた。そうかと思えば、どんな環境でもかならず先頭を切って走り続ける姿に「仲間への情がない」「自分が良ければそれでいいのか」と心ない言葉をかけられることもたくさんあった。

 

「変わらないこと」って何なのだろう。

「本当」って、いったいどこにあるんだろう。

 

正解は本人にすらわからないはずで、神様にだってわからないかもしれないのに、どうして人はその人のことを「変わってしまった」と平気で言うのだろう。

いま見ているものが、目の前にあるものがすべて虚像かもしれないのに、自分の見える限りの振る舞いや行動が少し違うものに見えたからって、どうしてそう簡単に批判できるのだろう。

 

わたしは、紫耀くんは「変わらない」人だと思う。

雑誌のインタビューやバラエティー番組で自ら語ることはほとんどないけれど、昔からお世話になった人たちの誕生日に、毎年かならずプレゼントを贈っていること。

ずっと大切にしている言葉が変わらないこと。

紫耀は変わらないねって、大人になるずっと前からの彼を知っている友人たちが、いつも言っていること。

わたしが紫耀くんを変わらないと思う理由は、挙げてみればたくさんある。「変わらない」ことを証明する理由は、その人のある一面だけではなくて、時系列や次元すら飛び越えてあらゆる角度から見たときの、膨大な言葉や行動の積み重ねの中にあると思う。

 

紫耀くんの親友と呼ばれるうちの2人が、紫耀くんのそばにいてくれていること。自分が安心していられる仲間たちと過ごす空間が、すぐそばにあること。

当たり前のことかもしれないけれど、激流のように荒れ狂う時代の波の中で、ずっと変わらずに紫耀くんがそこにいてくれたのは、そういう空間を、場所を、絶対になくさないようにしっかりと捕まえて、なによりも大切にしてきたからなのかもしれない。

 

わたしは今回、Voyageで描かれた相葉くんの姿に紫耀くんを重ねたけれど、かと言って相葉くんと紫耀くんは全く同じではない。

ただ、時代の最先端に押し出され、いろんな悩みを抱え、常に時代のトップランナーとして歩み続けてきた彼らに、ちょっとしたシンパシーを感じてしまったという、ただそれだけのことだ。

 

紫耀くんの人生は、紫耀くんだけのものだ。

彼が望み、描いていく彼自身のパレットをみつめ、塗り替えられていく新しい作品を、ずっとみつめていたい。「今」の紫耀くんが描く「今」しか見ることのできない景色を、常に新鮮な気持ちで見守れる人でありたい。

 

 

鎧のはなし

 

怒涛の雑誌ラッシュが続いている。

 

そんな中、先日発売されたばかりの女性誌で紫耀くんが興味深い言葉をこぼしていた。

‪平野「僕は健人くんみたいに自家発電するのが苦手で『よし、いくぞ!』みたいなスイッチがないんですよ。キラキラの"鎧"を常に身に纏い続けているのも健人くんのすごいところ。僕にはそれが重くてうまく着こなせない。いつでもどこでも『どーも、平野紫耀です!』365日鎧なし、私服のままなんです」‬(2020年5月号 MORE)

健人くんが纏っているあのキラキラオーラを、紫耀くんが「鎧」と評しているのをみてわたしはハッとした。

 

確かに、それは「鎧」だ。

いついかなる時も紳士であることを忘れない、常にあらゆる方向に気を配り、時には厳しい言葉を向けられても決してへこたれない。自分が自分であることを大切にして、いつも完璧にみられることを意識している。

 

わたしが健人くんに抱いているのは、そういう印象だ。いくつかのバラエティー番組に出演する姿をみていると、健人くんはそういう武装をして、自らや周りの大切な人を守ろうとしているような気さえする。

 

紫耀くんはまた別の誌面で、健人くんのその鎧を「ダイヤ」のようだとも言っている。世界一硬くて、唯一無二の輝きを放つ鉱石でできている健人くんの「鎧」は、確かに彼自身にしか作ることはできないだろうし、おそらく紫耀くんとは縁遠いものであるようにも思う。

 

そんな紫耀くんに対して、健人くんは。

‪中島「すでに自分らしい歩み方を知っている、ありのままの自分で勝負できている。自分を自分で作り上げてきたオレとしては、それが平野紫耀のすごいところだと思うけどね」(2020年5月号 MORE)‬

この2人のやりとりを初めて読んだとき、豆鉄砲を食った鳩のような気持ちだった。

俯瞰的にみた自分と、自分から見える相手の姿を純粋に比較して、その上で相手のことをここまで本音から褒め合う2人って、今までにいただろうか。建前で取り繕って、思ってもない言葉で褒めることなんて誰にでもできる。でも、この2人は相手のことをちゃんとみて、ちゃんとリスペクトして、そこから自らを顧みるための何かを学び得ようとしている。

お互いが確固たる「個」をもっているからこそ成し得る関係であり、己自身のことを誰よりも理解している2人だからこそ成り立つ会話だとも思った。

 

平野「俺、絶対にできないですもん。キラキラフレーズ言ってくださいって振られて言えたことないですもん。今まで一回も。」

中島「あ〜そう。言わなくてもいいってことだよ。言わなくても成立するくらいの充分な人。俺は言わないとここまで生き残れなかった人だから(笑)」

平野「いや〜なんだろうな、このフォローの仕方もキラキラしてますよね。すっごい…やっぱりナンバーワンですよ。」(2020年5月号 CanCam

 

正直言って、絶妙に噛み合っていない歯痒さ、みたいなものを感じる時もある。

紫耀くんは自分のことを褒められても、それを華麗にスルーしてしまう人だし、逆に健人くんはものすごく褒めたがり屋さんだ。健人くんが紫耀くんを喜ばせようとして言った言葉を、紫耀くんは華麗にスルーして「そんなことを言ってくれる健人くんがかっこいい」ってまた褒める。健人くんからしたら、たぶん俺のことを褒めて欲しくて言ったんじゃないよって感じなんだと思うんだけど。

 

そして健人くんは時々、紫耀くんをすこし「うらやましい」と思う感情もちらちらと覗かせている。わたしは健人くんのことを全くと言っていいほど充分に知らないけれど、健人くんの紫耀くんに対するそういう思いは、そうせざるを得なかった自分に対するコンプレックスみたいなものを感じさせる。

 

紫耀くんは、常にありのままでこの世界を生き抜いてきた。「365日鎧なし、私服のままなんです」なんて自身を評していたけれど、たしかに紫耀くんは「ありのまま」を大切にするひとだった。「嘘をつかない」はもちろんそうなんだけど、紫耀くんは昔から本当に変わらない。思考の糸口やその構造は少しずつ複雑なものに変化していっているけれど、基本的でいちばん大切にしているものは、絶対に揺らがない。

平野「ファンの方たちには"王子様"って言っていただけて、それはひとつのイメージかもしれないけれど、そもそも僕、アイドルってものがよくわかってないんです!アイドルだからキラキラしてなきゃいけないとも思わないし、アイドルだからいつもスマイルでいなきゃ、とも思わない。そんなの、別に無理しなくていいと思うんです、僕は。(中略)バラエティだったりインタビューの時なんかは、自然体でいたい。だって、その方がファンに寄り添えると思うから。」(2020年5月号 with)

人様に見られる仕事である以上、紫耀くんがいくらありのままを見せようとしても、それをコンテンツとして提供する側の意図に寄り添わないといけないし、私たちのもとに届く紫耀くんの姿はもちろん純度100%であるとは限らない。その上で、紫耀くんは限りなくわたしたちに寄り添おうとしてくれる。紫耀くんはそういう「ありのまま」を魅せる人だった。

 

ところで、この文章にでも出てくる「王子様」というフレーズ。世の中を席巻してきたジャニーズアイドルによく付随するこの手の言葉は、紫耀くんと健人くんを紹介するときの枕詞にも使われる。先日放送されたバラエティー番組でも「リアル王子様対決」と題した企画が行われたところだ。

紫耀くんが自分自身のことを「王子様」ではないと常に否定し続けていることは知っていたので、もちろんこれは健人くんにこそ似合う言葉だなと思っていたのだけれど。ネットで健人くんに関するファンの方のブログを探しているとき、こんな興味深い記事をみつけた。

 

中島健人は王子様キャラじゃない - 愛はジャスト 

 

この方の語る健人くん像を垣間見たとき、いろんなパズルのピースがはまって見えた気がした。

自分でも気付かないうちに「王子様」の概念を自然的に備えてしまったのが我らが中島健人なのです。ケンティー自ら「王子様に、俺はなる!」とどこぞの海賊王のように鼻息荒く「王子様」という財宝を捜しながら生きてきたのではなく、彼が美しいと感じること・善だと信じることを愚直に実践していった結果が、たまたま世間でいうところの「王子様」という概念と一致していたというだけの話なのです。

なるほど、確かに彼は「王子様キャラ」ではない、とわたしも思った。「キャラ」なんていう取り繕ってできるようなものではなく、健人くんの「王子様」という鎧はもう彼の身の一部となって、どれが鎧でどれが彼の本体なのかも分からないほど融合してしまっているのだと。

だからこそ健人くんは、並々ならぬ身体能力を持ち、天賦の才に恵まれながらも、謙虚で常にナチュラルであることを忘れない、武装せずとも強くいられる紫耀くんに対して一目置いているのだと、わたしはそう解釈した。

 

 

中島健人平野紫耀

初めは、絶対に混ざり合うことなんてない、個性の強すぎる2人の組み合わせは最適と言っていいのだろうかと不安に感じたりしたこともあったけれど。

2人の人間としての器の大きさとか、抱えている愛の強さだとか、背負わされるプレッシャーの重さとか。彼らは似ている。

だけど、やっぱり全然違う。まるで銀河系の異なる星に住んでいるそれぞれの国の「王」であり「神」のような存在である彼らの異文化交流は、未だに未知なる光に包まれたままだけれど。

 

そんな2人が素敵じゃないかと思えるようになった。

どんな道も正解だと思えてしまう、紫耀くんがどんな曲がり道やけもの道も正解にしてしまうから、やっぱりわたしは紫耀くんには敵わないなあ、と笑えてきてしまう。

 

中島「かわいい後輩、弟ではあるけれどちゃんと自立した、平野紫耀という一人前の存在でもあるから。かわいい弟と、お互い仕事をする男同士っていう二方面の見方ができるな。」(2020年5月号 月刊TVジョン)

 

バディであり、それぞれの国を持つ王であり、先輩と後輩であり、兄弟のようでもある2人。きっとこれから先、唯一無二の彼らなりの何者でもない関係を築いていくんだろうなと思う。そんな彼らを、わたしはこれからもそっと少し遠くから、見守り続けていきたい。

 

わたしは「平野紫耀」を知らない

 

あらゆる呪縛から解き放たれ、紫耀くんは人間になった。

もともと紫耀くんが人間だなんてことはもちろん当たり前なんだけど、泥臭くて人間味のある「ヒト」になった、という意味で。

 

今日は少しだけ、そんな紫耀くんとわたしの、それからのお話をしたいと思う。

 

わたしが紫耀くんの生まれ変わる速度についていけなくなったのは、2018年の年末頃からだった。ちょうど映画「ういらぶ。」の公開や1st Concert DVDの発売に先駆けて、番宣のためあらゆるバラエティー番組に出演していた時期のこと。

 

バラエティー番組に出演する度に、密着ドキュメンタリー番組が放映される度に。わたしは知らない紫耀くんの姿をたくさん目の当たりにした。

 

本来、喜ぶべきことのはずだった。

今まで彼が見せることのなかった新たな一面を知ることの愉しさ、裏側での出来事を目の当たりにしたときの高揚。何となく想像していた姿よりも、より濃く色を帯びた映像の数々に、「ああ、これでこそ平野紫耀だよ!」と感嘆し、さらに紫耀くんへの造詣を深めることもたくさんあった。

でも、それ以上に。

その類の番組を観終えた後のわたしの心の大部分を占めていたのは、虚無感だった。

 

愚かなことに、その頃のわたしは少しだけなら他の人よりも彼のことが「わかる」と勘違いしていたのだ。初めから近い距離にいたわけでもないのに、そんなこと百も承知だったはずなのに、なぜかものすごくショックを受けた。

 

彼が今ほどの注目を浴びる前から、彼の言葉を聞いてきたし、彼の姿や表情を見てきた。確かにそれは紛れもない事実であり、もちろん虚像なんかでもないはずだった。目の前で起こっていた出来事の積み重ねであり、その当時に彼自身が私たちに見せようとしてくれていた、彼なりのありのままの姿であるはずだった。

 

紫耀くんは嘘が嫌いだ。

上手に言葉を選び、誰も傷つかないように大人の事情に合わせて提供できる情報を調節することはあっても、決して自分を取り繕うために嘘をつく人ではなかった。何より、自分を色眼鏡を通して見られることをひどく嫌う人だったから。

 

なのにわたしは、自分が無知であることを忘れ、いつの間にか、過ぎた年月と知り得る限りの過去の思い出に溺れて驕ってしまっていた。

あれだけたくさんのテキストを覚えるくらいまで何度も読んでいたって、雑誌の定番インタビューの質問に対する答えがだいたい予測できるようになったって。紫耀くんのビジュアルが素晴らしいことが当たり前だと感じるくらい彼のことをみていたって、同じ空間で同じ時を過ごしていたって。

ファンはどこまでいったってファンでしかないし、その距離が縮まることも、優劣がつくこともないというのに、どこかでわたしは「変わらない紫耀くんを知っていること」に甘えてしまっていた。

 

悲しいというより、虚しかったのだ。

 

紫耀くんが別の人格に変化してしまったわけではない。平野紫耀という人間の本質が、何も変わってないことがわかっているからこそ、「知らない姿をみる」ということがただ怖かった。どうしたらいいか分からなかった。見たことない表情をして、耳にしたことのないエピソードを淡々と話す紫耀くんをみて、これはわたしの知っている平野紫耀なのかわからなくなった。もしかしたらこれは紫耀くんによく似たアンドロイドなのかもしれないとも思った。

 

「知らないことが怖かった」

 

それがあの真っ暗闇の時代を生きる紫耀くんを必死で追いかけていた、いちばんの要因なのだと思う。

はじめよりもその背中はずっと逞しく、広くなっていたはずなのに、少しでも目を離せばどこかへ消えてしまいそうだったから。どんなインタビューでも、本音と建前をうまく使って実像を捉えられまいとする紫耀くんのパズルのピースを少しずつ拾って、答え合わせをするのが好きだった。

 

己の論理によって、与えられた言葉の行間を読み解くことは、決して悪いことではないと思う。ただ、それは正解ではない。真実でもなければ、ものごとの真理でもない。あくまでそれは個人の中に作られた虚像に過ぎない。

しかし、わたしは自分自身の中にあまりにも完璧すぎる「平野紫耀の虚像」を作ってしまったために、紫耀くんが新たに見せるようになった、彼のより人間らしい姿を取り込めなくなっていた。

 

いつのまにかわたしは、長い年月をかけて「平野紫耀という人間を知っている」というどうしようもなく大きな勘違いをしていた。すべて知り得るなんてこと、できるはずがないのに。

 

 

そのうち、今を生きる紫耀くんの中に、過去の面影ばかりを探してしまう自分に気づいた。変わらない部分を探して見つけては、安心した。そんな自分がとてつもなく嫌だった。常に今の紫耀くんを正面から見つめて、その先の未来のためにまっすぐ応援していける人たちが目に見えて増えていくごとに、焦燥感が増した。

まるで自分だけが取り残されているみたいで。過去を知っていることや、それに関することを発信していくことすら、これからの紫耀くんを見守っていく上で足枷になりはしないかと考えた。

 

苦しかった。

 

紫耀くんは何も悪くないのに、心がついていけなかった。勝手にあらゆるしがらみに飲み込まれて、歪んだ見方しかすることができなくなってしまった自分がとてつもなく、嫌いになった。

 

それからしばらくした頃、ジュニア時代から紫耀くんのことをたくさん記録していたアカウントを消した。

本当に、ふと思った時の勢いまま「もういいや」と思ったのだ。別にわたしがいなくたって、他にたくさん代わりがいると心の底から思ったから、だ。

ファンを辞めるつもりはなかったけど(すべてを捨て去って、なかったことにできるほどの勇気がなかっただけなのかもしれない)、あの頃の温度のまま、わたしは紫耀くんを応援し続けることに限界を感じていた。

 

本当は、紫耀くんがデビュー会見で岸くんの「慢心一筋!」に笑い崩れたあの瞬間から、紫耀くんを捉えるための世界の再構築をしなければいけなかったのだと思う。

 

わたしが知っている紫耀くんは。

壊れそうなほど淡く儚い光を放って、小さな鉄格子の檻の中で綺麗な四肢を折りたたんで、傷だらけになって血をだらだらと垂らしながらもなお微笑んでいた、あの彼は。

仲間という武器を手に入れて、優雅な羽を生やして、生まれ変わったのだ。そんな彼を過去の型紙に当てはめることができないことに、もっと早く気づくべきだった。

 

だってわたしは、何にも知らない。

知らないのに、いろんなことを知ってるみたいにして、過去を乗り越えたふりをしていた。

 

CMの契約が切れたらパツッと何もかもを捨てて、事務所を去ろうとしていたことも。

すべての責任を背負う覚悟で、社長にデビューの話を持ち込んだことも。

千穐楽の日に、救急車で運ばれるくらいギリギリの状態で舞台に立ち続けたことも。

嗚咽が止まらなくなるくらい、愛する人を想って涙を流せることも。

 

わたしは、こんなに長い時間彼のことを見ておきながら、そんな紫耀くんの姿を見たこともなければ知ることすらも許されなかったのかと思うと、どうしようもなく情けなかった。

後日談にしては重すぎる彼の過去の記憶たちを素直に受け止め切れずに、紫耀くんと少しだけ距離をとった。

 

本当に、しょうもない人間だと思う。

大したことないくせに、一丁前に責任感と義務感だけはある、実に厄介なファンだという自覚はある。正直なところ、わたしは今になっても、長年応援し続けているはずの紫耀くんとどう向き合っていいのか、正解を見つけられていない。こんなこと、こんなブログで話すことではないのかもしれないし、記念すべき誕生の日にお祝いする言葉でもないはずだけど。紫耀くんがいかに素晴らしい人なのかを発信する自信すらも、今はないけれど。

 

でも、わたしはこの1年で、「知らない」ということを「知る」ことができた。なんでもないことかもしれないけれど、こう考えることで全てが報われる気がするのだ。

それはきっとソクラテスでいうところの「無知の知」みたいなものなのかもしれない。なんだかもっともみたいなことを語ろうとしているけれど、結局のところ、わたしは何にも知らない。

 

アイドルグループを応援していれば、だれしもはぶつかる「新規と古株」みたいな話がある。おそらくわたしは、紫耀くんを応援する者としてわりかし「古株」に分類されるであろう人間だし、「新規についてどう感じるか」みたいなことも聞かれたりするけれど。

そんなわたしですら、何にも知らないのだ。神性と人性を併せ持つ紫耀くんのことを理解できる日は、いつになっても来るはずがない。そしておそらく、知る必要もない。

 

だって、紫耀くんは哲学だ。

彼の人間性を読みとく回路は、永久のラビリンスの中に影を潜めている。

 

誰も知らない。知らなくていい。

たぶんそれが、きっと正解だ。それぞれが思う紫耀くんの姿があって、それでいいのだと思う。

 

だからわたしは、

ただどうしようもなく愛しい彼の背中を少し遠くから見守るだけの。

彼のすべてを認め、理解し、肯定するだけの。

彼の幸せを願い、祈るだけの。

彼にとってちっぽけで、ささやかな存在になれればそれでいい。そんな風にしか愛すことのできないわたしを神様どうか、お許しください。

 

ただひとつ願うことは、

愛おしい彼がこの世界で、ありのままの姿で生きていくことだけだ。

 

紫耀くんの放つ眩い光はこれからも世の中を明るく照らすことだろうし、わたしは一つずつスターへの階段を着実に登っていくあなたを下界から見つめ、祈りながら。あなたを夜空の星の一つみたいにして、進んでいくための一つの目印みたいにして、これからの人生を、生きていく。

 

23歳になった平野紫耀くんへ。

ずっとありのままで、あなたの思うままに生きてください。そうすればきっと、世界のどこかの片隅にいる誰かが、救われるから。

 

あなたがわたしのことを知らないのと同じように、わたしはあなたのことを知らない。何を考えて何を望み、何を目指して生きているのかすらもわからないけれど、わたしは知っている。

 

あなたが馬鹿みたいに真っ直ぐで、照れ屋さんで、仲間想いで、頼もしい存在であることを。悲しいくらいに守りたがり屋さんなことを、わたしは知っている。

 

だからわたしは、あなたの思う「平野紫耀のありのまま」に騙され続けよう。

 

生まれてきてくれて、ありがとう。生きる意味でいてくれて、何もかもを許し、わたしの人生を肯定してくれる存在でいてくれてありがとう。

どんなに歳を重ねても、あなたの幸せを願い続けさせてね。ずっとずっと愛しています。

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ミニマムおたくの収納まとめ

先日グッズの整理をした旨をキャスか何かで呟いたところ、収納を見せてほしいとの要望があったので

「グッズは集めないけど雑誌はたくさん集める派」ジャニオタの収納を簡単にお見せしたいと思います!

 

 

・収納ケース

全体像がこちら。

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このPlenty BoxはSeriaで買いました。ひとつあたり100円でコスパが良いところに惹かれた。

本当は無印のポリエチレンケースに入れたかったんですが、何にせよ高いしもし余分に買っちゃったらもったいないな〜…と思っていたところに見つけました!

蓋が付いているので重ねられるし、ダンボールだけど結構丈夫です。百均すごい。

DAISOでも似たようなのあったりしましたけど、わたしはSeriaのこのデザインがおしゃれだ〜と思って買ってみました!ぱっと見てジャニオタグッズが入ってるとは思うまい!やーい!

 

 

・雑誌

まずお伝えしておきたいのは、とにかくわたしは雑誌をたくさん買ってました、ということ。

特に2017年〜2018年は紫耀くんが出ている雑誌を平均月に5〜6冊は買っていたし、映画のプロモーションの時期だったら20冊以上買ってた……と、記憶しています(こうして文字にしてみると恐ろしいですね)

 

どうしてそんなに雑誌を買っていたのか、というと「わたしは紫耀くんの言葉が好きだから」という答えに至ってしまうのですが、とにかく手元にあればいつでも情報を確認できることが最大の利点です。

こんなこと言ってたよな〜と思ったときに「大体このくらいの時期で紫耀くんの髪型はこんな感じの時」という記憶を頼りに探して、無事見つけた時の快感がたまらなく好きです(ちょっとこわい)

辞書で気になる言葉を探してる、みたいな感覚です。そう、わたしにとって雑誌類は辞書。

ジュニア時代の情報源はほとんどと言っていいほど雑誌しかなかったんです。デビューってすごい……ブログってすごい……地上波ってすごい……ラジオってすごい……(まだ言ってる)

 

そんな紙ものオタクのわたしなので、雑誌を選ぶ基準をよく聞かれるのですが、優先順位としては

①テキストの内容 ②衣装・ビジュアル ③値段

です。その基準で選ぶと大体買う雑誌が決まってくるんですけどね(映画誌なら、①がいいのは日本映画naviさん・キネマ旬報さん②がいいのはJ Movie Magazineさん等 ※個人の主観です)

 

2016〜2018年あたりの買った雑誌なら、大体どの雑誌に何が書いてあったかは記憶しているので(だからこわいって)とりあえず探したいときに探せるようにざっと分けておこう!と思い、たどり着いたのがこのファイリングでした。

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映画誌やファッション誌、ステージ誌など百均で売っているサイズのA4ファイルに入らないものは、基本無印のA4ワイドに入れてます。

ポリプロピレンソフトフィルムクリアホルダーA4ワイド・40ポケット 通販 | 無印良品

ひとつ550円(税込)だけど、基本的にどんな大きさのものも入るし何よりビジュアルがすっきりするのでわたしはこれを推す!

最近だとSeriaとかにもA4ワイドのファイル出てたりするみたいだけど、リフィルの枚数的にもやっぱり無印が優秀なので、お高いけどやっぱりこの子が1番です。

 

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テレビ誌はどこかの百均のふつーのやつです。できるだけ時系列で並べるようにして、最近のやつは付箋にいつ発売のなんの雑誌なのかを書くようにしてます(さすがに覚えきれない)

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問題なのは、このちっこいMyojo、WiNK UP等の小さいドル誌!A4にも幅がギリギリ入らない割に、切っても長さが短いので見栄えが悪い。

しかもあんまり見返さない(映画誌とファッション誌だいすき)ので、百均のA4ワイドのクリアケースにまとめました!すっきり!

 

そして、今までは紫耀くん及びMr.KING、King & Princeが表紙を飾った雑誌はすべて丸ごと残していたのですが、何にせよ量が多い……!

とっても嬉しいことなんですけどね、わたしの部屋の本棚が壊れてきちゃったり、紫耀くんのところ以外読んでない(こら)ということもあったりだったので、この際すべてまとめてしまおう!ということで表紙も全部ファイリングしてあります。

紫耀くんが初めて表紙を飾ったDance Squareと本屋に朝から買いに走ったおしゃれヘアカタログ、銀座のおしゃれなカフェがたくさん載ってるHanakoだけはそのまま残ってます!わたしの一生の宝物なので!

 

 

・公式写真

こちらもみなさんお馴染み無印さんです。

ポリプロピレン高透明フィルムアルバム・2段L判・136枚用 通販 | 無印良品

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言わずもがな、高透明フィルムなのでとにかく美しくそして綺麗に保存してくれます。マジでこれは優勝。

上のはジャニーズショップ公式写真で、下のはフォトセットをファイリングしてあります。ついでにフォトセットの中でわたしが1番好きな4枚載せときますね。

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2013年の紫耀くんってどうしてこんなにきらきら・ふわふわなのでしょうか。至高すぎる。

大天才すぎてこれみるたびにとろけてます、すき。

 

 

そして、問題なのはステフォ。

大きさが2L版で、なかなか良いのが見つからなくて、ずっとジップロックに入れてたんですが(こら)ついに見つけました、無印で。

ポリプロピレンフォト・ハガキホルダー・2段・2L対応2段・56ポケット・両面タイプ 通販 | 無印良品

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もともとL版2段用なんですけど、なんと間をぶちぬいて2L版も入れられるという優れもの。ゆるゆるにみえますが、仕切りの部分がいい感じにストッパーになって固定してくれるので割と安定しています。これは良い。

 

ちなみに…ですが、わたしは友だちと会うときにたまーに写真も持っていくので、百均で売っている硬質ケースに入れて持ち運ぶと、折れる心配もないし汚れたりもしないのでおすすめです!わたし的には世紀の大発見だったのですが、わりと常識だったらごめんなさい…(笑)

 

・CDアルバム類

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CDを入れてるこの黒いケースは3coinsで買いました!これもおすすめ!

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基本的にCDもアルバムも全形態1枚ずつしか買わない派なのでめちゃくちゃすっきりしております。そして初めて買ったCDもシンデレラガールなので他のグループのものは一切ありません。あんまり参考にならなくてごめんなさい。

 

・クリアファイル、フライヤー類

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MATCHや花晴れなど、なにかとクリアファイルを集めがちなので、じゃばらタイプのファイルになんとなくの分類でぽーんと入れてます。

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ぱっと見てすぐわかればいいかな〜と思ってるのでその辺はわりと適当です。

ちなみにコンサートグッズのクリアファイルは買わない派(聞いてない)

 

 

・その他

先に申し上げておくと、会報は全く参考にならないです。これはこれから改善する!(予定)

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会報ケースって結構いろいろあると思うんですけど、いつもなんでか後回しになっちゃうんですよね……今のファイルに入らなくなったらちゃんとしたケースを探したいと思います。

 

 

このクリアケースはコンサートでの落下物とか懸賞で当てた限定グッズとかを入れてます。

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そんなに見返したりしないけど、思い出としてとっておきたいもの類…?みたいな感じです。

銀テも全くこだわりないのでたぶんこの巻き方のままだとハゲてます。でも別にいいや…。

 

 

最後にお友達からもらったお手紙たちとチケットファイルです。

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デジチケは熱感紙だからラミネートしといたほうがいいよ〜と言われてるのでやらなきゃな〜と思いつつやってません(この辺適当すぎる)

お気に入りのミュシャのチケットファイルに入れてます。かわいいからすき。

 

お手紙は無印のEVAケースに入れてます。

EVAケース・ファスナー付B6 通販 | 無印良品

これがま〜〜〜便利なんです!!!グッズ収納だけじゃなく、レシート管理だったり小物収納だったり、本当にいろんなものに使えるのでめちゃくちゃおすすめ!何にでも使えます!そしてお安い!なんかおしゃれ!

 

 

と、ざっとこんな感じでまとめてみましたがいかがでしたでしょうか。

わりとグッズに関してはミニマム派ですし、基本かさばるものは買わないようにしてるので、物が多い人にはあんまり参考にならないとは思いますが…!

 

今回は「収納」をテーマにしていたので、そのまま入れてるものとかは省いてご紹介してます。もしなにか気になるものとかあったらマシュマロでぜひ送ってくださいませ〜!

 

 

 

おわり